文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を駆け巡った社会人類学者の文化あれこれ

なぜ右?なぜ左?

なぜ右?なぜ左?

 

見事な左右対称のマンションの一室に住む。宅配便の配達員の大方は、建物入り口のロックを開錠すると、荷物を持って右にいく。残念ながら、拙宅は左側の一室にある。渡り廊下のない当マンションは右からでも左からでも各フロアを自由に往復できない構造となっている。右に行ってしまった配達員は一度1階に戻り、左の棟に行き直さねばならない。不思議なことに多くの配達員はマンション入り口で案内をしなければ、右に行ってしまう。建物の左の棟に住む私は、すぐ対応できるようにと自宅玄関で待つが、配達員の姿はなかなか現れない。右に行ってしまった配達員は、左の棟に辿り着けず、マンション入口に戻り再度左側へ入り直すことになる。

 

反対に、左へ行く人の動きもある。拙宅を出て、最寄りの駅に向かって真っすぐに伸びる一方通行の道を駅に向かって歩く人の多くは左側を通っている。縁石線や柵などで区画された歩道はない。歩行者に設けられているのは車道の左右に白線で設けられた路側帯で、駅に向かう人の多くは左側の路側帯を車と同方向に向う。

いずれ左に曲がるから何となく左側を通るのか。緩いアップダウンのある道を10分ほど歩くと駅前通りに出る。そこから駅の改札口への階段は一方通行の道からほんの数歩左に曲がったところにある。だから左側の路側帯を歩くのか。この一方通行路の左に面した家に住む人は駅に向かって左の路側帯を歩くかもしれない。ところが、右側に面した家から出てきた人もわざわざ道路を横切って左路側帯を歩きだしている。反対に駅を背にして来る人も、やはり道路の左側を歩いてそれぞれの目的地点に向かっている人が多数を占める。要するにこの一方通行の通りでは、歩行者はいずれも自分が向かう正面の左側を歩いている。

 

車の通らない地下街でもほとんどの人は左側を行き来している。地下商店街では、店舗側を左にして、右手を通路側にして、いわば右手をフリーハンドにして歩いている。時には、左側通行と記した張り紙があったりする地下街さえある。車は左、人は右という対面通行のルールはここでは関係ない。入り口を右に行ってしまう配達員の動きとは反対に思える。そもそも車が通らないところでの左側通行とはどういうことなのか。右でも左でもいいはずだ。

 

江戸時代には、武士が刀を左に挿して歩くので、右側を空けて行き交うということであったらしいが、武士ではない町民には道の右左は関係ない。早馬、飛脚、駕籠が通る時は道の左右どちらかに人は避けたのであろう。荷車や駕籠はとりあえず左側通行であったようだが、人々は道の真ん中を歩いていて人力車や馬車が来てもどう避けていいのか分からないというような光景が多々あったようだ。こうした道の左右に関係なく人々が歩く光景は明治になっても続いたが、車馬の増加によって通行ルールの徹底が必要になった。まず、馬車や人力車には道の左側通行が決められた。その後、歩行者の左通行が定められたのは明治34年(1901年)からという。以後多様な手段を通じて「人も車も左」の周知徹底が日本では図られた。

 

長年にわたったこの左側通行に変更が加えられたのは、太平洋戦争後のことである。日本の「車は左、人は右」の交通ルールは、第二次世界大戦後にGHQの要請を受けての結果である。もっとも当初GHQは、車は右、人は左とする米国の対面通行の導入を要請したが、すでに左側通行を行ってきた日本は、既存の施設変更のために膨大な費用がかかることから米国式とは反対の「人は右、車は左」の対面通行を導入することで昭和29年(1949年)に決着させた。いわば英国の対面通行様式を導入したのだ。この対面交通は、車と人の通行に関するルールである。車が通らない場所ではこの「車は左、人は右」のルールは関係ない。結果として、今日でも地下街や駅構内には左側通行が維持されているのではないか。

 

ここまで考えているうちに右左がこんがらかってくる。拙宅に来る宅配業者が右に行くのはこの日本の対面交通と関係するのか。マンションの入り口を一歩踏み込めば、そこは車が関係しない空間である。地下商店街や駅構内と同じである。なぜ左側に入っていかないのかと考える。そこではたと気づいた。右に行っても渡り廊下を伝って左に行けると直感的に想定しているから時計と反対回りをしようとしているのではないか。そうか、渡り廊下がないために話がややこしくなっているのだ。地下商店街を歩く人と同じだ。駅へ向かう人と同様に左側通行しようとしているのだ。

 

しかし、日本の左側交通の長い歴史だけでこの左側通行の習慣を説明するには不充分である。西洋世界を発祥とするトラック競争や野球の出塁でも走者は時計とは反対回りで、左に向かって走っている。走者はトラックを左側にして走り、野球では打者はマウンドを左にして右に出塁する。自転車競技もトッラクを左回りする。日本のみでなく諸外国でも多くの動きが左回りを選択してきているのだ。

トラック競技では左回りの方が良い成績が出るからといわれる。近代オリンピックでトラック競技が、右回りから左回りに変更になったのは1908年の第4回からとされる。その理由は、左回りでの記録がよかったからである。また、左回りを選択する理由としてよく言われるのは、心臓の位置である。胸の左側にある心臓を内側にすることで心臓を保護するためだと言われる。しかし、心臓は正中線が通る真ん中にあり、心臓の4部屋の一つの左心室が多少左に寄っている程度である。これが左回りをもたらす直接の原因といいきるのは難しい。左足は体を支える軸足で、軸は内側になり、カーブを回る時に左回りの方が重心を支えるというように、左右の足の機能の違いから説明されることもある。少し違った左右の捉え方に、遊園地の回転木馬とジェットコースターが取り上げられる。前者の回転木馬は左回りが多いが、それは安心や楽しさをもたらすからとされる。反対に後者のジェットコースターには右回りが多いが、それはスピ-ドと一緒に緊張や怖さをもたらすからとされる。

 

左右の区分は、文化や宗教と関係している例もある。イタリアの田舎では、何か調子が悪い時、朝起きた時に左足からベッドを下りたからだといったりする。ポルトガル語では右左の言葉そのものに優劣の意味がある。direito(a)は「右の」という意味の他に「正しい」「誠実な」を意味している。左を表すesquerdo(a)には「ねじれた」、「歪んだ」といった意味合いがある。英語の左右も同様な傾向がみられる。多くの人が右利きということからきた結果であろう。聖書にも右=善、左=悪の概念がみられる。『マタイによる福音書』第6章には「施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。(略)施しをするときは、右手ですることを左手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあり、左手を偽善者に例えている。西洋世界では、右の評価が高く、左が低くなるという文化的な習慣がみられるということになろう。

面白いことに、日本ではこの左右の評価は反対になる。律令制度下の官職である左大臣と右大臣は、左上右下である。歌舞伎の伝統では、舞台側から見て左側が上手(かみて)、右側を下手(しもて)である。もっとも左を好ましくない意味で用いる左遷という言葉があるが、これは中国の項羽と劉邦の争いを通じて誕生したとされる。劉邦項羽によって中国大陸の中心から左側の地(漢)に追いやられたことから用いられたという。この言葉が日本にもたらされたのはせいぜい言って、唐風文化に心酔した奈良時代のこととであろう。しかも左遷の対語として右を使用した言葉があるわけではない。

国による左右の意味の違いを考えると、国際会議で各国の首脳が列を作っておさまっている記念写真の光景はそれぞれ違って見えているのかもしれない。

 

以上のように左右の区別は生活の便宜上単に使用されてきたものではなかった。文化的、生理的意味を有する概念でもあった。右に行ってしまう宅配業者の行動を考えているうちに右と左の多様な意味に翻弄されてしまった。

(2024・3・25)

 

左右の概念については以下の文献を参考にした

・西山賢一『左右学への招待―世界は「左と右」であふれている』2005年 光文社。

・小沢康甫『暮らしのなかの左右学』2009年 東京堂出版