文化・社会よもやま話

新旧大陸10ケ国余を駆け巡った社会人類学者の文化あれこれ

なぜ右?なぜ左?

なぜ右?なぜ左?

 

見事な左右対称のマンションの一室に住む。宅配便の配達員の大方は、建物入り口のロックを開錠すると、荷物を持って右にいく。残念ながら、拙宅は左側の一室にある。渡り廊下のない当マンションは右からでも左からでも各フロアを自由に往復できない構造となっている。右に行ってしまった配達員は一度1階に戻り、左の棟に行き直さねばならない。不思議なことに多くの配達員はマンション入り口で案内をしなければ、右に行ってしまう。建物の左の棟に住む私は、すぐ対応できるようにと自宅玄関で待つが、配達員の姿はなかなか現れない。右に行ってしまった配達員は、左の棟に辿り着けず、マンション入口に戻り再度左側へ入り直すことになる。

 

反対に、左へ行く人の動きもある。拙宅を出て、最寄りの駅に向かって真っすぐに伸びる一方通行の道を駅に向かって歩く人の多くは左側を通っている。縁石線や柵などで区画された歩道はない。歩行者に設けられているのは車道の左右に白線で設けられた路側帯で、駅に向かう人の多くは左側の路側帯を車と同方向に向う。

いずれ左に曲がるから何となく左側を通るのか。緩いアップダウンのある道を10分ほど歩くと駅前通りに出る。そこから駅の改札口への階段は一方通行の道からほんの数歩左に曲がったところにある。だから左側の路側帯を歩くのか。この一方通行路の左に面した家に住む人は駅に向かって左の路側帯を歩くかもしれない。ところが、右側に面した家から出てきた人もわざわざ道路を横切って左路側帯を歩きだしている。反対に駅を背にして来る人も、やはり道路の左側を歩いてそれぞれの目的地点に向かっている人が多数を占める。要するにこの一方通行の通りでは、歩行者はいずれも自分が向かう正面の左側を歩いている。

 

車の通らない地下街でもほとんどの人は左側を行き来している。地下商店街では、店舗側を左にして、右手を通路側にして、いわば右手をフリーハンドにして歩いている。時には、左側通行と記した張り紙があったりする地下街さえある。車は左、人は右という対面通行のルールはここでは関係ない。入り口を右に行ってしまう配達員の動きとは反対に思える。そもそも車が通らないところでの左側通行とはどういうことなのか。右でも左でもいいはずだ。

 

江戸時代には、武士が刀を左に挿して歩くので、右側を空けて行き交うということであったらしいが、武士ではない町民には道の右左は関係ない。早馬、飛脚、駕籠が通る時は道の左右どちらかに人は避けたのであろう。荷車や駕籠はとりあえず左側通行であったようだが、人々は道の真ん中を歩いていて人力車や馬車が来てもどう避けていいのか分からないというような光景が多々あったようだ。こうした道の左右に関係なく人々が歩く光景は明治になっても続いたが、車馬の増加によって通行ルールの徹底が必要になった。まず、馬車や人力車には道の左側通行が決められた。その後、歩行者の左通行が定められたのは明治34年(1901年)からという。以後多様な手段を通じて「人も車も左」の周知徹底が日本では図られた。

 

長年にわたったこの左側通行に変更が加えられたのは、太平洋戦争後のことである。日本の「車は左、人は右」の交通ルールは、第二次世界大戦後にGHQの要請を受けての結果である。もっとも当初GHQは、車は右、人は左とする米国の対面通行の導入を要請したが、すでに左側通行を行ってきた日本は、既存の施設変更のために膨大な費用がかかることから米国式とは反対の「人は右、車は左」の対面通行を導入することで昭和29年(1949年)に決着させた。いわば英国の対面通行様式を導入したのだ。この対面交通は、車と人の通行に関するルールである。車が通らない場所ではこの「車は左、人は右」のルールは関係ない。結果として、今日でも地下街や駅構内には左側通行が維持されているのではないか。

 

ここまで考えているうちに右左がこんがらかってくる。拙宅に来る宅配業者が右に行くのはこの日本の対面交通と関係するのか。マンションの入り口を一歩踏み込めば、そこは車が関係しない空間である。地下商店街や駅構内と同じである。なぜ左側に入っていかないのかと考える。そこではたと気づいた。右に行っても渡り廊下を伝って左に行けると直感的に想定しているから時計と反対回りをしようとしているのではないか。そうか、渡り廊下がないために話がややこしくなっているのだ。地下商店街を歩く人と同じだ。駅へ向かう人と同様に左側通行しようとしているのだ。

 

しかし、日本の左側交通の長い歴史だけでこの左側通行の習慣を説明するには不充分である。西洋世界を発祥とするトラック競争や野球の出塁でも走者は時計とは反対回りで、左に向かって走っている。走者はトラックを左側にして走り、野球では打者はマウンドを左にして右に出塁する。自転車競技もトッラクを左回りする。日本のみでなく諸外国でも多くの動きが左回りを選択してきているのだ。

トラック競技では左回りの方が良い成績が出るからといわれる。近代オリンピックでトラック競技が、右回りから左回りに変更になったのは1908年の第4回からとされる。その理由は、左回りでの記録がよかったからである。また、左回りを選択する理由としてよく言われるのは、心臓の位置である。胸の左側にある心臓を内側にすることで心臓を保護するためだと言われる。しかし、心臓は正中線が通る真ん中にあり、心臓の4部屋の一つの左心室が多少左に寄っている程度である。これが左回りをもたらす直接の原因といいきるのは難しい。左足は体を支える軸足で、軸は内側になり、カーブを回る時に左回りの方が重心を支えるというように、左右の足の機能の違いから説明されることもある。少し違った左右の捉え方に、遊園地の回転木馬とジェットコースターが取り上げられる。前者の回転木馬は左回りが多いが、それは安心や楽しさをもたらすからとされる。反対に後者のジェットコースターには右回りが多いが、それはスピ-ドと一緒に緊張や怖さをもたらすからとされる。

 

左右の区分は、文化や宗教と関係している例もある。イタリアの田舎では、何か調子が悪い時、朝起きた時に左足からベッドを下りたからだといったりする。ポルトガル語では右左の言葉そのものに優劣の意味がある。direito(a)は「右の」という意味の他に「正しい」「誠実な」を意味している。左を表すesquerdo(a)には「ねじれた」、「歪んだ」といった意味合いがある。英語の左右も同様な傾向がみられる。多くの人が右利きということからきた結果であろう。聖書にも右=善、左=悪の概念がみられる。『マタイによる福音書』第6章には「施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。(略)施しをするときは、右手ですることを左手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」とあり、左手を偽善者に例えている。西洋世界では、右の評価が高く、左が低くなるという文化的な習慣がみられるということになろう。

面白いことに、日本ではこの左右の評価は反対になる。律令制度下の官職である左大臣と右大臣は、左上右下である。歌舞伎の伝統では、舞台側から見て左側が上手(かみて)、右側を下手(しもて)である。もっとも左を好ましくない意味で用いる左遷という言葉があるが、これは中国の項羽と劉邦の争いを通じて誕生したとされる。劉邦項羽によって中国大陸の中心から左側の地(漢)に追いやられたことから用いられたという。この言葉が日本にもたらされたのはせいぜい言って、唐風文化に心酔した奈良時代のこととであろう。しかも左遷の対語として右を使用した言葉があるわけではない。

国による左右の意味の違いを考えると、国際会議で各国の首脳が列を作っておさまっている記念写真の光景はそれぞれ違って見えているのかもしれない。

 

以上のように左右の区別は生活の便宜上単に使用されてきたものではなかった。文化的、生理的意味を有する概念でもあった。右に行ってしまう宅配業者の行動を考えているうちに右と左の多様な意味に翻弄されてしまった。

(2024・3・25)

 

左右の概念については以下の文献を参考にした

・西山賢一『左右学への招待―世界は「左と右」であふれている』2005年 光文社。

・小沢康甫『暮らしのなかの左右学』2009年 東京堂出版

知らない振りをする日本人

知らない振りをする日本人

海外(その大半は西欧諸国)と日本の挨拶の違いに言及するSNSへの書き込みをよく目にする。ほとんどが日本人の愛想のなさに言及し、挨拶をすればその場の対人関係が和やかになるのにと嘆いている。

 

日本とラテン系諸国での日常の挨拶

確かに、ラテン系諸国を中心に外国で暮していた頃、東京に戻るたびにご近所の顔見知りの方との日常挨拶に戸惑うことが多々あった。たまたまお会いしたご近所の方に笑顔で挨拶したり、時には「おはようございます」などと声を出して挨拶していた。ところが、こうした日常の挨拶に呼応する人はわずかで、多くは目を背けるか、無視する。中には通りの向こうを歩いて来るのに顔を会わせまいとするかのように道の反対に移動してしまう人もいる。単なる顔見知りにどのように接したらいいのか戸惑う日々であった。

イタリアのミラノでは名前を知らなくてもご近所であれば「Buongiorno(おはよう)」「Ciao(こんにちは)」程度の挨拶は交わす。あるいは目を合わせて笑顔で会釈する。ブラジルの大都会であるサンパウロでは、エレベーターに乗ると、ほとんどの人は「Bom dia(おはよう)」と互いに言い合う。ビジネスマンの利用するビルのエレベーターでは、お互いに勤務している会社を承知しているわけではないが、それでも、毎朝エレベーターで顔を合わせる知り合いだから挨拶は交わす。

 

知らない振りする礼儀の誕生

挨拶を交わす理由の一つは、相手に敵意を持っていないということを示すためだと言われる。挨拶の役割をこのように理解するのは、西欧諸国のみならず日本でも同じだろう。となると、挨拶をしない日本人は周りの人に敵意を持っているというのだろうか。そうではないだろう。今の東京はこうした挨拶を必要としないのかもしれない。むしろ、知らない振りする礼儀なるものがあるのかもしれない。

かれこれ50年程前のこと。カトリックの国ブラジルから来日したばかりの神父が、東京の繁華街で行き会う人ごとに「こんにちは」「こんにちは」と声を掛けて歩いたという。誰も反応してくれず、寂しい思いをしたと語ってくれたことがある。当時、なぜ通りがかりの人にわざわざ挨拶をするのかと不思議に思った。神父ということでブラジルでは誰からでも声をかけられていたからなのだろうと勝手な思いで神父の話を聞いていた。ところが先日、サンパウロ市内に住んでいる友人が、ネットに書き込まれていたという地方出身の女性の話を紹介してくれた。地方の町から出てきてサンパウロの町で生活を始めたところ、行き交う人々が挨拶しあうことがないことに驚いたというのである。その女性は小さい頃から父親に行違う人には挨拶をしなさいと教えられて育ったという。大都会サンパウロのマンションに住む友人は、通りすがりの人に挨拶するのはコミュニティ意識を持つマンション内の住民程度だと言ってきた。東京でも同じマンションの住民は擦れ違う時には、「こんにちは」程度の挨拶は交わしている。

 

都市化による挨拶の変容

かつて、日本人が村落共同体の中で生活していた時代には、村で出会う人と挨拶を交わすのが礼儀だった。村落社会でお互いに挨拶を交わすことは、良好な人間関係を保ち、村落社会の共同体意識を高めてコミュニティ統合を維持していくという社会的機能を果たしていた。村落社会では共同作業や相互依存性が常に求められており、日常のコミュニケーションを通じて地域社会の凝集性が高められていたからである。そこで、村落社会の付き合いの第一は、他人に遭ったり見かけたりしたときには、必ず声をかけ、挨拶するようになった。見知らぬ人のいない村内では、挨拶しないことが許されない行動となる。挨拶は村の住民として一人前であるかどうかを見極める基準のひとつとされ、幼児期からしつけを通じて身につけさせられた。

ところが、1950年代半ばから産業化と都市化が進展するようになると、農村では過疎化が進み、村落共同体での付き合いが後退した。と同時に、都市化に伴い新興住宅地や高層住宅が出現すると、隣近所の付き合いは希薄となり、かつてのような挨拶は必要とはされなくなったのだ。つまり、共同作業や相互依存性が近隣住民に求められる必要性がなくなり、電車、カフェ、エレベーターなどを通じて都市社会のあらゆる場所で不特定多数の人との接触が生まれたのである。行き交う人が増えたからといっても、その行き交う人が必ずしも知り合いではない。その結果、都市の生活ではかつてのような頻繁な挨拶行動は必ずしも必要でなくなった。他人を無視はしないが、干渉もしないという程度の挨拶が、都会の挨拶となった。

 

むすび

要するに、都会での知らない振りは、それ以上は立ち入らないという合意で、せいぜい簡単な挨拶に止めおくということなのだ。

パリでもミラノでも、例えば単なる顔見知りのお向かいの奥さんに「おはよう」といいはするが、この挨拶をきっかけに会話へと展開することはない。東京に住む40歳代の男性は、マンション内で住民の人とすれ違ったりすると、なるべく挨拶をしないようにするという。それは、挨拶を切っ掛けに会話に発展しないようにするためだという。確かに地域的な違いはあるだろうが、こうした知らない素振りはどこの都会でも合意事項なのではないだろうか。日本人が冷たいのではない。

 

2023・12・3記

知らない振りをする日本人

知らない振りをする日本人

 

海外(その大半は西欧諸国)と日本の挨拶の違いに言及するSNSへの書き込みをよく目にする。ほとんどが日本人の愛想のなさに言及し、挨拶をすればその場の対人関係が和やかになるのにと嘆いている。

 

日本とラテン系諸国での日常の挨拶

確かに、ラテン系諸国を中心に外国で暮していた頃、東京に戻るたびにご近所の顔見知りの方との日常挨拶に戸惑うことが多々あった。たまたまお会いしたご近所の方に笑顔で挨拶したり、時には「おはようございます」などと声を出して挨拶していた。ところが、こうした日常の挨拶に呼応する人はわずかで、多くは目を背けるか、無視する。中には通りの向こうを歩いて来るのに顔を会わせまいとするかのように道の反対に移動してしまう人もいる。単なる顔見知りにどのように接したらいいのか戸惑う日々であった。

イタリアのミラノでは名前を知らなくてもご近所であれば「Buongiorno(おはよう)」「Ciao(こんにちは)」程度の挨拶は交わす。あるいは目を合わせて笑顔で会釈する。ブラジルの大都会であるサンパウロでは、エレベーターに乗ると、ほとんどの人は「Bom dia(おはよう)」と互いに言い合う。ビジネスマンの利用するビルのエレベーターでは、お互いに勤務している会社を承知しているわけではないが、それでも、毎朝エレベーターで顔を合わせる知り合いだから挨拶は交わす。

 

知らない振りする礼儀の誕生

挨拶を交わす理由の一つは、相手に敵意を持っていないということを示すためだと言われる。挨拶の役割をこのように理解するのは、西欧諸国のみならず日本でも同じだろう。となると、挨拶をしない日本人は周りの人に敵意を持っているというのだろうか。そうではないだろう。今の東京はこうした挨拶を必要としないのかもしれない。むしろ、知らない振りする礼儀なるものがあるのかもしれない。

かれこれ50年程前のこと。カトリックの国ブラジルから来日したばかりの神父が、東京の繁華街で行き会う人ごとに「こんにちは」「こんにちは」と声を掛けて歩いたという。誰も反応してくれず、寂しい思いをしたと語ってくれたことがある。当時、なぜ通りがかりの人にわざわざ挨拶をするのかと不思議に思った。神父ということでブラジルでは誰からでも声をかけられていたからなのだろうと勝手な思いで神父の話を聞いていた。ところが先日、サンパウロ市内に住んでいる友人が、ネットに書き込まれていたという地方出身の女性の話を紹介してくれた。地方の町から出てきてサンパウロの町で生活を始めたところ、行き交う人々が挨拶しあうことがないことに驚いたというのである。その女性は小さい頃から父親に行違う人には挨拶をしなさいと教えられて育ったという。大都会サンパウロのマンションに住む友人は、通りすがりの人に挨拶するのはコミュニティ意識を持つマンション内の住民程度だと言ってきた。東京でも同じマンションの住民は擦れ違う時には、「こんにちは」程度の挨拶は交わしている。

 

都市化による挨拶の変容

かつて、日本人が村落共同体の中で生活していた時代には、村で出会う人と挨拶を交わすのが礼儀だった。村落社会でお互いに挨拶を交わすことは、良好な人間関係を保ち、村落社会の共同体意識を高めてコミュニティ統合を維持していくという社会的機能を果たしていた。村落社会では共同作業や相互依存性が常に求められており、日常のコミュニケーションを通じて地域社会の凝集性が高められていたからである。そこで、村落社会の付き合いの第一は、他人に遭ったり見かけたりしたときには、必ず声をかけ、挨拶するようになった。見知らぬ人のいない村内では、挨拶しないことが許されない行動となる。挨拶は村の住民として一人前であるかどうかを見極める基準のひとつとされ、幼児期からしつけを通じて身につけさせられた。

ところが、1950年代半ばから産業化と都市化が進展するようになると、農村では過疎化が進み、村落共同体での付き合いが後退した。と同時に、都市化に伴い新興住宅地や高層住宅が出現すると、隣近所の付き合いは希薄となり、かつてのような挨拶は必要とはされなくなったのだ。つまり、共同作業や相互依存性が近隣住民に求められる必要性がなくなり、電車、カフェ、エレベーターなどを通じて都市社会のあらゆる場所で不特定多数の人との接触が生まれたのである。行き交う人が増えたからといっても、その行き交う人が必ずしも知り合いではない。その結果、都市の生活ではかつてのような頻繁な挨拶行動は必ずしも必要でなくなった。他人を無視はしないが、干渉もしないという程度の挨拶が、都会の挨拶となった。

 

むすび

要するに、都会での知らない振りは、それ以上は立ち入らないという合意で、せいぜい簡単な挨拶に止めおくということなのだ。

パリでもミラノでも、例えば単なる顔見知りのお向かいの奥さんに「おはよう」といいはするが、この挨拶をきっかけに会話へと展開することはない。東京に住む40歳代の男性は、マンション内で住民の人とすれ違ったりすると、なるべく挨拶をしないようにするという。それは、挨拶を切っ掛けに会話に発展しないようにするためだという。確かに地域的な違いはあるだろうが、こうした知らない素振りはどこの都会でも合意事項なのではないだろうか。日本人が冷たいのではない。

 

2023・12・3記

履物を脱ぐ文化・脱がない文化

履物を脱ぐ文化・脱がない文化

先日、発達心理学の教科書のページを繰っていると、とある図版が目に入ってきた。それは、乳児の奥行き知覚を把握する米国の大学の実験の光景であった。検査用ベッドに上向きに寝かされた乳児が上からの落下物に反応するのかどうかをみようとする実験である。靴を履いたまま上向きに寝かされた赤ん坊の姿に違和感を覚えた。日本ではこうした時、赤ん坊に限らず大人も靴を履いたままではない。

そこでふと思い出したのが、ブラジル育ちの息子に日本では靴を脱ぐのだということを体得させるのに苦労したことだった。息子が3歳になる時に日本に帰国した。苦労したのは家に入るときは靴を脱ぐということを覚えさせることだった。外出から帰宅すると、靴を履いたまま上がり框に足をかけて、家に上がろうとする。そこで玄関のたたきに靴を脱がせながら、家の中では靴は脱ぐのだと言い聞かせるという毎日であった。ある日銀行に行った時のこと、当時まだあった縦長の床置きの灰皿の上に息子は靴を脱いで乗せて、「やったぞ!」とばかりに、得意げに私に見せにきたことがあった。とにかく靴を脱ぐことは覚えたのだ。ところが、次の問題である。日本では建物によって靴を脱ぐ場合と脱がない場合があるのだ。つまり、家では靴を脱ぐが、銀行やレストランでは靴を脱がないのである。この違いを体得させるのが次の苦労であったが、いつの間にか息子はその違いを覚えたようだった。面白いことに靴脱学習と共にポルトガル語を忘れていったようだった。

ヨーロッパの多くの国では家の中でも靴を履いたまま生活する。現在はどうなっているか判らないが、20世紀末のイタリア、ミラノで目にした光景である。居間で革靴を履いたまま生活している男性の姿があった。床が傷つくだろうにと眺めていた。さすが女性はヒールの靴は履いてはいなかった。ブラジル南部のドイツ移民の多い街で過ごした時には、人前で靴を脱ぐのは裸になるのと同じことだという説明を受けたことがある。とはいえ、当然のことながらバスルームでは靴を脱ぐ。寝室でも靴を脱ぐ。要するに、家の中のプライベート空間では靴を脱ぐが、居間や食堂、玄関といったパブリックな空間では靴は脱がないということだ。

家の中で靴を脱ぐか脱がないかは寒暖の違いで説明されることがある。単純化して言えば、寒いから靴を脱がず、暑いから靴を脱ぐという説明である。確かに、日本を含む東南アジアは蒸し暑いとされるところでこれらの地域の諸国では履物を脱ぐ習慣が一般的にみられる。他方、イギリス、オランダ、ベルギーといった、日本より高緯度の地域では靴を脱がない習慣がみられる。しかし、寒暖だけで説明できない場合もある。寒さの厳しい北欧ではブーツを利用するので、家の中に入ればブーツを脱ぐ。南欧のイタリアやスペインでは、地中海の湿気が加わったサハラ砂漠の40℃を超える熱風シロッコが吹くが、靴は履いて生活している。

この靴を「脱ぐ」と「脱がない」の全く反対のライフスタイルがずっと気になっていた。ある時イタリア南部のマテーラでサッシと呼ばれる洞窟住居と出会った。この洞窟住居を見学した時、ヨーロッパの靴を履いたままの習慣の起源にたどり着いたと思った。現在ではユネスコ世界遺産となっているが、当時はイタリアの単なる観光地の一つで、旧市街地とされていたが、依然住人が生活をしていた。家の中を公開しているお宅を見学させてもらった。居住空間となる洞窟内には、2~3か所の空間がある。一つには竈があり台所のような機能を果たし、もう一つの空間は馬小屋に使用されていた。そして洞窟の真ん中の一番大きな空間には寝台、食卓、機織り機などがあった。床は文字通りの土間である。日本のかつての民家を思い出したが、中心となる洞窟に据えられていたベッドに目を見張った。なぜ靴をはいたまま生活するのかという疑問の答えが見つかったような気がした。土間の中心に置かれたベッドは大人の胸ほどもある高いものであった。椅子がなければ、ベッドに上れないし、横にもなれない。一日の生業を終えてやっと横になる時が、着替えをして靴を脱ぐ時となるのだ。土間にはニワトリなどの家畜が放し飼にされ、うろうろしていた。犬もいた。人間と動物が一つ屋根の下で生活していた。だからこそ、家畜がベッドに乗れないように高くしてあるのだ。一家のベッドはこのベッド一つで、子供も一緒に寝るのでかなり大きい。そして朝起きれば、土間での生活が始まるから、靴を履くか、裸足で家の中を行き来することになる。絵や写真で見る中世ヨーロッパの農民の生活である。貴族の屋敷では15世紀になると床はタイルや木製となり、カーペットが敷かれるようになるが、靴を履いての生活は続いてきた。

 日本の古民家にも土間があり、そこで煮炊きをする。時には隣接して馬小屋がある。しかもかつてはこの土間に藁を敷いて寝るということもあったようだ。江戸中期以降、畳が普及すると土間に設けられた上がり框の先に畳が敷かれ、この畳の上での食事や寝泊まりやその他の日常生活が展開されるようになった。つまり土間から上がり框に上がる時、履物を脱ぐことになる。そこでは脱ぎやすい足袋や履物の普及が関係してくることになる。

 現代のヨーロッパの家と日本の家を比較して見ると、玄関の扉の開閉の方向が、履物の脱ぎ履きと関係しているのではないかとも思える。靴を履いたまま玄関に入るヨーロッパの家の玄関の入口の前には、往々にして足マットが置いてある。そこで靴についた汚れを落として入室する。玄関ドアの外にマットを置くので、大方はドアは内開きである。現代の日本の玄関ドアは外開きである。玄関に入りそこで靴を脱げばいいので、内開きにして玄関を狭くしない。ヨーロッパの家でも時として、玄関ドアが外開きのことがあるが、その場合はドアの外側が一段低くなっていることが大半である。一段低くなった石段にマットを置くことができる。外にマットが置けない場合は、玄関に入るとマットが置いてあって、そこで靴を履き替える。長靴を抜いて短靴に履き替えるが、履物入れはない。入った玄関のマットの上に脱いで置く。

   気候と建物が相互に関係しあって履物を脱ぐ、脱がないの文化を形成してきたのであろう。20世紀末以降のグローバル化の中で、日本と西欧相互の生活スタイルが広く認識されるようになった結果、両者は相互に新しい生活スタイルを取り入れてきた。昨今では、コロナ感染の世界的な流行が、自宅内での履物の区別を促進していると聞く。いつものことながら、相互に情報が交わされる中で、文化は変容していく。

柿とKAKI―モノの伝播と文化

柿とKAKI―モノの伝播と文化

                        三 田 千 代 子

 五月の薫風に酔いながら駅に向かって歩いていた。いつも目にしていた柿の木が黄白色の小さな花を付けているのに気が付いた。現役時代には脇目も振らず速足でただひたすら駅を目指して歩いており、見慣れた柿の木に咲く花に全く気づくことはなかった。夏休みが終わりまた新学期が始まると、色づき始めた柿の実を駅に向かいながら目にすると、秋学期が到来したことを実感させられたことは思い出す。でも柿の花の記憶は全くない。

柿の木の葉に覆われるように咲いている可憐な花に目をやりながら立ち止まっていると、ブラジルのサンパウロで目にした柿を思い出した。かれこれ50年以上も前のことである。朝市に並ぶ柿は全て完熟していた。日本人の私にとって柿とは、包丁で皮をむいて、シャキシャキと食するものであった。熟し過ぎて形が崩れそうになった柿に手を出すことはなかった。それが、朝市の店頭に並んでいるのである。この今にも崩れそうな柿をどうやって客に渡すのかと見ていると、客がプラスチックの容器を持参し、それに柿をそっと入れている。持ち帰ってそれをどのように食するのか俄然興味が湧いた。日系ブラジル人の友人に聞けば、皮を付けたまま適当な大きさに切って、果肉の部分だけを口で吸って食べるのだという。つまり、「柿を食べる」というのではなく、「柿を吸う」というのだそうだ。もう一つの食仕方はそのままパンに塗って、ジャムのようにして食するという。要するに、ブラジルの柿は渋柿であるために、完熟させなくては食べられないのだという。ならば干し柿にしたらと提案したら、すでに試したが湿気と温度が適当ではなくうまくいかなかったという。それから20年後、サンパウロにKAKI FUYU(富有柿)、KAKI JITRO(次郎柿)といった甘柿が次々と出現した。朝市の店頭では、店主がナイフで皮をむいた柿を適当な大きさに切って道行く客に振る舞っていた。柿は、「吸うもの」から「食べるもの」に変化していた。渋柿を甘柿に変え、柿の食仕方に変化をもたらしたのは、ブラジルに渡った日本移民の功績の一つである。では、以前サンパウロで見たあの渋柿はどこから伝えられたのか。

19世紀に、フランスで観賞用に用いられていた柿をブラジル人の作家が持ち帰ったことがその始まりとされている。最初は種子が、次に苗木がブラジルにもたらされた。独立後の19世紀の初め、ヨーロッパ、特にフランスを範として近代社会を築いたブラジルは、ヨーロッパ伝来の文物を次々導入した。この過程で、柿は「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられたのである。

柿は東アジアの固有種とされ、日本あるいは中国長江流域を原産とするとされる。中国では「柿」の文字を用い、日本では「カキ」と称していた。日本に漢字が伝えられると「賀岐」や「加岐」の文字を当てたようであるが、最終的には中国の「柿」を用いて「カキ」としたようである。となると、「KAKI」としてフランスからブラジルに伝えられた柿は、日本からヨーロッパに伝えられたものと推測される。

イタリアでも柿は「カキ」である。ミラノの市場に並ぶ柿にはCACO(カコ)の看板が掲げられている。なぜCACHI(カキ)ではないのかと店の前で立ち止まる。そうかイタリア語は複数の名詞の語尾は[ⅰ]となる。つまり“CACHI”では複数の柿になってしまうので、商品名は単数(つまり総称として)の”CACO”なのだと合点した。大航海時代を制したスペインでもポルトガルでもCAQUI(カキ)である。となると、日本原産の柿がヨーロッパに、そして新大陸に伝播した経緯が知りたくなる。

柿の学名はDiospyros Kaki Thunbergである。Thunbergとはスウエーデンの植物学者で医者でもあったカール・ピーター・ツンベルグ(Carl Peter Thunberg, 1743―1828年)のことで、出島で商館付医師として日本に滞在し、柿をヨーロッパに紹介した人物の一人とされている。同様に出島に駐在したケンペル(Engelbert Kanpfer, 1651-1716年)やシーボルト(Philipp Franz B. von Siebold, 1796-1866年)なども日本の文化や動植物をヨーロッパに紹介した人物としてよく知られている。特にシーボルトは植物2000種、植物標本1万2000点を持ち帰り、『シーボルト日本植物誌』(瀬倉正克訳、八坂書房、2007年)を著している。

日本の柿は、17~18世紀に「カキ」という名称とともにヨーロッパに伝えられ、さらに大西洋を渡り、南米にもたらさられた。ブラジルで日本移民と出会うと、渋柿が甘柿に品種改良され、柿の概念を一変させた。この間、実に300年。人の移動とともにモノが伝わり、伝わったその先々で新たな文化を創り出した。移動すするヒトやモノが変化しても、移動に伴う新しい文化の創造は常に続いており、人類の歴史は新たな文化の創造の歴史でもあろう。

イギリスの英語にも“KAKI”なる単語がある。米国では、よく知られるようにPERSIMMONが用いられる。この言葉の語源は先住民のもので、日本の柿が米国に伝わった時、Japanese Persimmon Kakiと名付けられたところから、Persimmonが英語の単語として用いられるようになったようである。大航海時代を念頭に置くと、ポルトガルやスペイン商人も日本の柿をツンベルグの遥か以前にヨーロッパに伝えていた可能性はあるのだが、別の機会に調べてみたい。

                            (2200字)

リンゴは何色?

リンゴは何色?              

                           三 田 千 代 子

二年程前、仕事でアラブ首長国アブダビに立ち寄ることになった。飛行機を降りて空港内を歩いていると、カフェテリアの陳列ケースの中にある緑色の塊が目に入ってきた。こんなところに置いてあるペンキの緑色のような物体は何かと、好奇心に駆られて目を凝らして観てみた。何と緑色のリンゴがガラスのケースの中にいくつも重ねて並べられていたのである。日本の王林のような黄緑色ではない。まさに緑色そのものなのである。アラブのリンゴは緑色なのかと認識を新たにしたが、食指は動かなかった。

日本人がリンゴといって思い浮かべるのは赤いリンゴである。詩に童謡に歌謡曲にと歌われてきたリンゴは、赤くて丸い果物である。スーパーマーケットに並んでいるリンゴを見ると、現実には赤や黄色や黄緑と多彩である。しかも、赤いといっても真紅から黄緑が混じったようなリンゴまであり、赤い色もまちまちである。にもかかわらず、日本人はリンゴに丸くて赤いものというイメージを持っている。子供にリンゴの絵を描いてもらうと揃って赤いクレヨンを手にして丸く描く。この赤くて丸いというリンゴの色と形は日本人の頭には、一対になって刷り込まれている。

こんなことを考えているうちに、5010も前にパリのオルセー美術館で観たセザンヌの『青リンゴ』の絵が思い出された。当時の私は、セザンヌはまだ熟していない青リンゴを描いたものと思って眺めていた。しかし、アブダビで緑のリンゴに出会ったことで、緑といえども熟したリンゴがあることに気づかされた。となると、セザンヌの『青リンゴ』は未完の美しさを描いたのではなく、完熟したおいしいリンゴとして描かれたのかという思いにいたった。そういえば、10年程前に友人と歩いたパリの下町の青果店の店先にいくつもの木箱の中に入ってリンゴが並べられており、赤いリンゴだけでなく、緑色のリンゴが箱一杯に詰められていた。立ち寄った街角の売店で手にした絵本には、男の子がハンモックのようなものに横になって緑のリンゴをかじっている姿が描かれていた。フランスでは、緑のリンゴがリンゴなのだと理解した方がどうも素直な解釈のようだ。

ベルギーのシュルレアリズムの画家ルネ・マグリットも緑色のリンゴを描いた作品を数点残している。例えば、「盗聴の部屋」では、一つの大きな緑色のリンゴが部屋全体を占めている。「人の子」という作品では、低い塀と曇った空をバックに山高帽を被って起立している男性が描かれており、その顔は青リンゴで隠されている。同様の構図が「世界大戦」という作品と「山高帽の男」という作品にも用いられている。「世界大戦」では、日傘を差した女性の顔がスミレの花のブーケで隠されている。「山高帽の男」では、帽子を被って立っている男性の顔の前で一羽の白鳩が羽ばたき、その顔は隠されている。これら顔を隠した小道具に注目すると、マグリットにとってリンゴが緑であることが日常の当然の認識だったのではないかと推察される。つまり、ヨーロッパのある地域の人々は、日本人がリンゴを赤と認識するように、リンゴを緑と認識するのだろうと思われる。

西アジアを原産地としながらもリンゴは、熱帯や寒帯を除けば、世界中にそれぞれの地で新たな種(しゅ)を誕生させてきた。リンゴの種(たね)の形態が、シルクロードを通って西と東に世界中に広がることを可能にした一要因とされている。滑らかな滴の形をしたリンゴの固い種は、馬が食べても消化されず、そのまま排出され、キャラバン隊とともに一日数十キロの旅をして次なる地の土壌と気候に適応して、新たなリンゴをアジアやヨーロッパに誕生させてきた。現在世界では7500以上のリンゴの品種が栽培されているといわれるが、この程度の数の収まったのは接ぎ木という技法を人間が発見したことで、遺伝的多様性に富むリンゴを限られた数の栽培種に育て上げてきたことによる。フランスはモロッコやイランでリンゴ栽培の技術指導を行っており、アブダビで青リンゴに出会ってもおかしくはないのだ。

ここで面白いことに気づいた。「リンゴのような頬っぺの女の子」というと、大方の日本人は「赤くて丸い頬っぺをした元気な女の子」を想像する。しかし、リンゴを赤いと認識していない国々では、この表現ではせいぜい「頬が丸い子」と、その形態を思い浮かべるに留まるのではないだろうか。日本に滞在しているイギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル出身の知人に「リンゴの頬っぺの女の子」と言われたら、どのような女の子を想像するかを尋ねてみた。みんな揃って「女の子の頬の形が丸い」ことを連想すると答えてくれた。「リンゴ」という言葉をそれぞれの言語で知ったとしても、その背後にある含意、つまり社会文化的意味を把握していないと、思いもかけない誤認に繋がることになりそうだ。            (1972字)                  

                               2019.4.19 

色はいろいろ

                              三田千代子

先日、トルコのイスタンブールで警察車両が爆発されたニュースの映像がテレビで流れた。現場立ち入りを禁止する赤白のテープがほんの一瞬であったが目に入った。すると、かれこれ三〇年程前の経験が蘇ってきた。

 イタリア、ミラノに滞在していた頃のことである。ある月曜日の朝、車を運転して裏通りを通ると、「紅白」のテープが道の両側で巻かれたままになっていた。それを見て私は「昨日の日曜日、この辺りでブラスバンドが繰り出すパレードでもあったのだろう」と、何となく心を弾ませながら車を走らせていた。すると、道の奥の真ん中に「紅白」のテープが巻きついた杭が何本も立っているのが目に入った。見ると道の真ん中に大きな穴が開いていた。弾んでいた私の心はたちまち消沈してしまった。気が付かなければ、車は穴に突っ込んでいたのである。道の真ん中に穴が開いたままでのパレードは、さぞやりにくかっただろうと勝手な想像をした。それにしてもパレードが終わったのに、なぜ主催者は「紅白」のテープを処分しておかなかったのだろうと訝った。周りを見回すとこの裏通りに入り込んできている車は他にない。私の車だけである。そこではたと気が付いた。そうか、イタリアでは赤と白のテープは、「ハレ」を意味する「紅白」ではなく、注意を喚起する「赤白」だったのだ。

 色は社会や文化によってその意味するところが違うのだと、この時、身を以て体験した。同じ景観や空間を眺めていても、文化が異なれば人それぞれ感じたり思ったりしていることは違ってくるのだ。

 そんな文化による色の意味の違いを一枚のブラジル・モダニズムの絵を通じて体験した。キャンパスの中央の上に大きな黄色の丸が描かれ、その右下には巨大な一本のサボテンが描かれ、それをバックに性別不明のデフォルメされた人物が裸で座っている。小さい頭に大きな鼻、小さな肩に大きな腕と手足の人物。四〇〇年にわたるヨーロッパ文化の支配から解放され、ブラジル固有の文化の誕生を宣言した代表的な作品である。

 この大きな黄色の丸を描いた絵は、月が上り灼熱地獄から解放された農民がサボテンの繁るサバンナで一息ついている光景を描いているのだと思っていた。確かに、サボテンと奇妙な姿の人物というモチーフは、それまでのヨーロッパを範とした絵画には見られないものである。

 ところが、数年前、メキシコ事情に詳しい友人と雑談していると、メキシコでは太陽を黄色で描くことを知った。そこで、気が付いたのである。あの大きな黄色の丸は、灼熱の太陽を描いていたのだ。なるほど、サバンナのサボテンに灼熱の太陽、さらに性別不明の大きな人物を通じてブラジル固有の光景を描き、ヨーロッパと決別したのである。

 私は明らかに、黄色い太陽を描く文化の人達とは全く違った形でこの著名な絵を眺めてきていたのである。日本の文化では、「日の丸」が端的に示しているように太陽は赤と認識されてきた。〽真っ赤に燃えた太陽だから…とさえ歌われたように、日本人にとって太陽を象徴する色は赤なのである。

 ことほどさように、色が何色なのかを理解してもその色が意味していることを理解することは、なかなか難しい。

 ところが、ミラノで経験したように、危険や注意を意味する色は今日のようなグローバル化の時代には普遍的でなければ恐ろしい結果を招きかねない。

 十五年程前、大西洋に浮かぶポルトガルのアソーレス諸島を訪れる機会があった。道路を挟んでそれぞれ一棟ずつビルが建設中であった。一方のビルの周りには赤白のテープが廻らされていた。なるほどこれはヨーロッパの「赤白」だ。ところが、今一方のビルを見ると、黄色と黒のテープが張り廻らされてあった。

 アソーレスには、米国でよく目にする黄色と黒の組み合わせとヨーロッパの赤白とが同時存在するのだ。ポルトガルからアソーレス諸島を超えた先には新大陸の米国がある。第二次大戦後に設立された北大西洋条約機構ポルトガルが加盟したことにより、アソーレスには米軍基地が建設された。こうした地政学的状況から米国の黄色と黒とヨーロッパの赤白とが、この地で出会ったのであろう。かくして、危険や注意を促す二組の色の組み合わせが同時存在することによって、とりあえずは色の意味が普遍化したといえよう。

 今日、日本でも、注意や危険を喚起する意味で黄色と黒色の組み合わせを用いると同時に、赤色のコーンも目にすることがある。アソーレスで起こったことが日本でもみかけられている。

 かくして色は文化によって異なるのみでなく、時間とともにも変化しているのである。

                            53行(2016・06・13)